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第2代バッキンガム公ヘンリー・スタフォード(''Henry Stafford, 2nd Duke of Buckingham'', 1454年9月4日 - 1483年11月2日)は薔薇戦争期のイングランドの貴族で、リチャード3世の興隆と没落の中で重要な役割を果たした。また、ロンドン塔に幽閉された筈のエドワード5世が行方不明になった(暗殺されたとも言われる)事件の容疑者の1人でもある。 バッキンガム公はイングランド王家の血をいくつも引いてはいたが、その血も女系だったり妾腹だったりで自身が王にまでなる可能性は低かった。だが、長引くランカスター朝とヨーク朝の対立による混乱(薔薇戦争)によって、思いのほか王位に近いところに来てしまう。その後の行動から、彼自身も王位に興味を持っていたという説もあるが、結局反逆罪で処刑されてしまう。 == 生涯 == === 青年期 === ヘンリー・スタフォードはヘンリー6世統治下の1454年に生まれた。父スタフォード伯ハンフリー・スタフォードはランカスター派に属しており、まだ幼い息子を残して1455年のセント・オールバーンズの戦いで戦死してしまった。また、同じくランカスター派の中心人物だった祖父バッキンガム公ハンフリー・スタフォードはその5年後のノーサンプトンの戦いで戦死している。 1465年、11歳の時にバッキンガム公に叙せられた。もっとも、まだ若い新公爵には後見役が必要と、エドワード4世の王妃エリザベス・ウッドヴィルが後見役になった。その翌年、彼は王妃の妹キャサリン・ウッドヴィル(Catherine Woodville, 1458年 - 1509年en)と結婚する。 バッキンガム公にとって、エリザベスに強制されたこの結婚は受け入れ難いものであり、その憤りは妻キャサリン、そしてウッドヴィル家にも向けられる事になる。1483年4月にエドワード4世が病没して、ウッドヴィル家がエドワード4世の弟グロスター公リチャードと主導権争いを始めると、ウッドヴィル家が擁立するエドワード5世の後見人のはずのバッキンガム公は、真っ先にリチャード支持を表明した。 議会はその後、「エドワード4世とエリザベス・ウッドヴィルの結婚が重婚である事から無効であり、その2人から生まれたエドワード5世は私生児であるため、王位継承権は無効」と宣言し、グロスター公リチャードに王位の継承を申し出る。リチャードはこれを快諾し、ここにイングランド王リチャード3世が誕生する。当初はリチャードを支持したバッキンガム公だが、後に彼はエリー司教ジョン・モートンと共謀して、リチャード3世に抵抗する彼の又従兄のリッチモンド伯ヘンリー・テューダーの支援活動を始める(ヘンリー・テューダーを支援するという事は、当時ヘンリーと同盟を組んでリチャードに対抗していたウッドヴィルと同陣営になるということなのだが)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヘンリー・スタッフォード (第2代バッキンガム公爵)」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Henry Stafford, 2nd Duke of Buckingham 」があります。 スポンサード リンク
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